高野かおりの似顔絵

高野加織(代表理事)

愛知県豊川市という普通の地方都市で生まれ育ちました。何かずっと鬱々とした日々を過ごし、早くこの場所を出たいと思いつつ、自分の気づきの遅さと弱さに向き合うことができず、自分を騙し騙し、25歳でやっとこさ上京。

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なにも取り柄がないのでとりあえず派遣社員として、日本の中では大企業と呼ばれる会社を転々とします。一応日本の中心といわれる場所にいたことで、今の日本社会はこう動いているんだな、みたいなものがなんとなく見えてきました。それまで情報源はテレビか雑誌くらいしかなかったので、そこから得ていたものはこんなふうに作られ、こんなふうに私の頭の中に刷り込まれ、それが流行や常識を作り出しているんだな、ということを知りました。
その後、長男を妊娠出産、そして東日本大地震。夫の転職、和歌山県へ引っ越し。。。2年ほどの間で次々と私の中で大きな出来事が起こりました。マスコミや情報、社会毒、ワクチン、医療、放射能、育児、教育、都市と田舎、災害、働き方、などなど。。。自分の体験からいろいろなことを見聞きし、情報を集め、疑問を感じたり自分なりに考えたりしながら日々を過ごしていました。そんな中で夫の祖父母が住んでいた土地である奈良吉野の山の中へ引っ越し、次男三男を授かりました。それまで都会での子育てがしっくりこなかったり、マンション住まいの閉塞感を感じていたけれど、この吉野の広橋地区というところに来てからそのストレスが一気に解放されました。私が特別何かをしなくても、この環境と自然が子育てしてくれました。どんな場所に行ってもそれなりに順応してしまう私はそこに今まで気が付かなかった(気が付かないようにしてた?)のかもしれません。
そんな中で、いわゆる発達障害、不登校、DV、シングルマザーなどなど、いろんな悩みのある人たちに出会い、そういう人たちの悩みを聞く機会が増えました。でも私一人ではなにもできず、自分は本当に無力だなということを実感しました。そんな時、この地元にいる人たちで同じような思いを持った人たちと出会い、何かをやろうと動き出しました。それがこの「峠のまなび舎」です。私が今まで感じてきたこと、疑問に思ってきたことなど色々ありますが、そういった個人個人で思っていること感じていることを、この峠のまなび舎で皆で考え、学び、議論し、表現できたらいいなと考えています。


羽室行信の似顔絵

羽室行信(理事)

東京オリンピック開催年に生まれ西宮/神戸で育ちました。街の雰囲気が全く肌に合わず、いろいろと悩む中で、大学時代に大峯の大自然にハマり、入山すれば一ヶ月は下山せずに大峯の沢を中心に駆け回っておりました。

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山で人生観が180度変わるほどの経験をし、ぼんやりとこれが一生の仕事になるとの思いを強くしました。ただ、それは、矢沢永吉by山川啓介的「虹をみちまった」ことであり、そこからその虹にたどりつくために山にのめり込んでいくことになります。とりあえず大学に仕事を得て、子育てもあって虹からはしばらく遠のいていたのですが、子供が大学にいくようになる45歳頃に、再び山にのめり込むことになります。居住地もここ広橋に移し、また山漬けの生活がはじまりました。冬は利尻、羅臼を拠点に山を駆け回り、夏は地元の沢と岩に取り憑かれ、気がつけば、厳冬期デナリ単独登頂を目指すことに。腕試しで初春4月に登ったのですが、6000mあたりで頂上を臨むもルートを取り違え、荷物をロストしてほぼ遭難、命からがら下山するも凍傷で指を失う始末。凍傷の傷も癒えた翌々年2月に本番挑戦するも、windy cornerあたりで戦意喪失状態に。死に直面した時の心の傷はなかなか癒えず、西洋的厳しい山から遠ざかっておりました。そんな時、第二の故郷北海道を放浪し、様々な人に出会い語り、日本の豊かな自然に回帰する自分を見つけ、ここ広橋で思いを新たに活動を始めております。心の片隅で未だに虹を求めつつ。。。

峠のまなび舎では、仕事の関係で少し得意なIT/AIの講師を担当します。また、副業でシステム開発/ビッグデータ解析の事業もしておりますので、ここで育った方と一緒にこの地でお仕事できればいいなとも考えています。手に職つけて、自然に育まれる生活を取り戻しましょう!

西洋的厳しい山(デナリbasin campにて)
日本の豊かな自然
日本の豊かな自然(近くの神童子谷にて)


岩崎庄隆の似顔絵

岩崎庄隆(理事)

物心ついた頃から高校を卒業するまで、大阪のいわゆる北河内と呼ばれる京都に近い辺りで多感な時期を過ごしました。長男で結構期待されていたようで父母に学歴や資格もあったことから、幼少期からかなり英才教育を受けほとんど友達と遊ぶ時間がなく、友達との遊び方やコミュニケーションや距離のとり方が分りませんでした。

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その頃に、息抜きと言いますかちょっとした楽しみが書道教室や絵画教室で、その「書」や「絵」といったものが現在の私のアトリエ「ゲロゲロ」の活動に繋がります。そして、この吉野の地に辿り着いたのはそんな親元から一刻も早く逃げ出し独立したく手っ取り早く隣県の奈良へ就職したわけですが、やはり組織内でのコミュニケーションが上手く取れず結局一匹狼的に孤立した感じで、当時「中吉野」とと呼ばれる地域に赴任することになったわけです。すると、まだ20代独身だったゲロゲロにとりまして吉野の自然と地域コミュニティにカルチャーショックを受け、この地に骨を埋めようとひそかに心にきめ居を構え、氏神様の石柱に名を刻んで貰いました。その後やはりと言いますか結局、組織に馴染めず早期退職を決意し自分の気持ちに正直に生きる(活きる)ことを決め実行致しました。それが今ある自然と農業とアートと教育を一体とした活き方をモチベーションとするゲロゲロであります。活動内容は主として、キッズインストラクターの他こどものアトリエぱぴえ(美術教室)、イラストレーター、画家、紙芝居師、紙芝居作家、絵本読み聞かせ、農業や料理(食堂・CafeBar)などがあります。


中垣内敏博の似顔絵

中垣内敏博(監事)

この広橋で生まれ、幼稚園、小学校と峠の学校で学びました。当時全校生で66人の小学生が在籍し、みんな仲が良く校舎より高いところの運動場で野球や馬飛び、かくれんぼなど思い思いの遊びで過ごしました。

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春には梅の香り漂う峠道、夏はラジオ体操と川遊び、秋はマツタケ狩り、冬は雪遊びなど自然いっぱいの中で育ちました。10月15日が秋祭り、翌日が小学校の運動会と決まっていて、地域の老若男女みなさんが参加し盛大に行われたものです。高校を卒業し大阪の大学に進学するとともにふるさとを離れました。諸事情により地元に帰って消防団やPTA活動など団体に参加していくうちに、地域おこし、町つくりに協力していかなければとおもうようになりました。地元に戻った時より人口減少、少子高齢化いう現実に直面していて、どうすれば活気のある広橋にできるのか、何が必要なのか手をこまねいていた時、峠の学び舎事業に共感しました。旧広橋小学の校歌は歌人前登志夫氏が作詞されました。「峯ひかるわがふるさと、谷あおいわがふるさと、梅におうわがふるさと」と謳われています。昔のような賑わいを取り戻すことはできませんが、自然いっぱいの木造校舎で、将来を担う子供たちの、形にとらわれない、自由な発想と健全な心をはぐくむような教育をお手伝いできればと思います。